太宗寺の歴史

太宗寺(たいそうじ)は、東京都新宿区新宿二丁目にある浄土宗の寺院です。
山号は霞関山、院号は本覚院、本尊は阿弥陀如来になります。

歴史

寺伝によれば、慶長元年(1596年)ごろに僧・太宗が開いた草庵、「太宗庵」が前身である。寛永6年(1629年)、安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり、寛文8年(1668年)に正勝の長男重頼から寺地の寄進を受け、太宗を開山として太宗寺が創建されました。
院号は正勝の法名を拝しています。
元禄4年(1691年)、内藤氏は信濃国高遠藩へ移封されましたが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれました。
内藤氏の墓地は約300坪の広大なものでしたが、昭和27年(1952年)から行われた区画整理で縮小されました。
5代目当主正勝など3基の墓石が現存します。

かつては境内北側に水が湧いており、蟹川につながる池がありましたが、昭和25年(1950年)3月、境内北側は都市計画公園として新宿区に移管され、新宿区立新宿公園となっています。

境内には江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置された地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番があります。
また、この寺には閻魔像・奪衣婆像が安置されており、江戸時代から庶民に信仰されてきました。
現在も、毎年7月15日・16日の縁日に御開扉されています。

他に新宿山ノ手七福神の一つである布袋尊像、真っ白に塩を被った姿が特徴の「塩かけ地蔵」などがあります。

甲州道中と内藤新宿

甲州道中(甲州街道)は、徳川家康が慶長・元和年間に整備を行った五街道(ほかに東海道・中山道・奥州道中・日光道中)のひとつで、江戸から甲府を経て下諏訪で中山道に合流します。
この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発して四里八丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。
そこで、浅草阿部川町(現元浅草四丁目)に住む名主喜兵衛(のちの高松喜六)は、元禄10年(1697)に同志4名とともに、太宗寺の南東に宿場を開設するよう、幕府に願いを出しました。
なぜ喜兵衛らが宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませんが、5人は開設に際し運上金5600両を納めることを申し出ました。
この願いは翌元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部や旗本朝倉氏の屋敷地などを返上させて、これにあてました。
こうして「内藤新宿」は、元禄12年(1699)2月に開設のはこびとなり、同年4月には業務を開始しました。喜兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました。

宿場は東西九町十間余(約999m)、現在の四谷4丁目交差点(四谷大木戸)の約200m西から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。
宿場は大きく3つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。
太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取り扱う施設)などがありました。
「内藤新宿」は、江戸の出入り口にあたる四宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁栄しましたが、その繁栄しましたが、その繁栄を支えたのが旅籠屋でした。
ここには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄15年(1702)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました。
このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが、享保3年(1718)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。
これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたことなどが原因といわれますが、八代将軍吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。
その後、度重なる再興の願いにより、明和9年(1772)に宿場は再興されました。

太宗寺の創建と内藤家

太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。
太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1629)内藤家第五代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くことになりました。
これが縁で、寛文8年(1668)六代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。
内藤家は七代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。
また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。
現在も、毎年お盆の7月15・16日には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。
なお、寺号「太宗寺」は、創建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本格院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。浄土宗の寺院です。